善の研究:第二編 実在:第十章 実在としての神
善の研究:第二編 実在:第十章 実在としての神
これまで論じた所に由って見ると、我々が自然と名づけている所の者も、精神といっている所の者も、全く種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違に由って起る区別である。自然を深く理解せば、その根柢において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ、即ち宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである。而してこの唯一実在はかつていったように、一方においては無限の対立衝突であると共に、一方においては無限の統一である、一言にていえば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直ただちに神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。
いずれの時代でも、いずれの人民でも、神という語をもたない者はない。しかし知識の程度および要求の差異に由って種々の意義に解せられている。いわゆる宗教家の多くは神は宇宙の外に立ちて而しかもこの宇宙を支配する偉大なる人間の如き者と考えている。しかし此かくの如き神の考は甚だ幼稚であって、啻ただに今日の学問知識と衝突するばかりでなく、宗教上においても此の如き神と我々人間とは内心における親密なる一致を得ることはできぬと考える。しかし今日の極端なる科学者のように、物体が唯一の実在であって物力が宇宙の根本であると考えることもできぬ。上にいったように、実在の根柢には精神的原理があって、この原理が即ち神である。印度インド宗教の根本義であるようにアートマンとブラハマンとは同一である。神は宇宙の大精神である。 古来神の存在を証明するに種々の議論がある。或者はこの世界は無より始まることはできぬ、何者かこの世界を作った者がなければならぬ、かくの如き世界の創造者が神であるという。即ち因果律に基づいてこの世界の原因を神であるとするのである。或者はこの世界は偶然に存在する者ではなくして一々意味をもった者である、即ち或一定の目的に向って組織せられたものであるという事実を根拠として、何者か斯かくの如き組織を与えた者がなければならぬと推論し、此の如き宇宙の指導者が即ち神であるという、即ち世界と神との関係を芸術の作品と芸術家の如くに考えるのである。これらは皆知識の方より神の存在を証明し、かつその性質を定めんとする者であるが、そのほか全く知識を離れて、道徳的要求の上より神の存在を証明せんとする者がある。これらの人のいう所に由れば、我々人間には道徳的要求なる者がある、即ち良心なる者がある、然るにもしこの宇宙に勧善懲悪の大主宰者が無かったならば、我々の道徳は無意義のものとなる、道徳の維持者として是非、神の存在を認めねばならぬというのである、カントの如きはこの種の論者である。しかしこれらの議論は果して真の神の存在を証明し得るであろうか。世界に原因がなければならぬから、神の存在を認めねばならぬというが、もし因果律を根拠としてかくの如くいうならば、何故に更に一歩を進んで神の原因を尋ぬることはできないか。神は無始無終であって原因なくして存在するというならば、この世界も何故にそのように存在するということはできないか。また世界が或目的に従うて都合よく組織せられてあるという事実から、全智なる支配者がなければならぬと推理するには、事実上宇宙の万物が尽ことごとく合目的に出来て居るということを証明せねばならぬ、しかしこは頗すこぶる難事である。もしかくの如きことが証明せられねば、神の存在が証明できぬというならば、神の存在は甚だ不確実となる。或人はこれを信ずるであろうが、或人はこれを信ぜぬであろう。且つこの事が証明せられたとしても我々はこの世界が偶然に斯く合目的に出来たものと考えることを得るのである。道徳的要求より神の存在を証明せんとするのは、尚更に薄弱である。全知全能の神なる者があって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与えるには相違ないが、我々の実行上かく考えた方が有益であるからといって、かかる者がなければならぬという証明にはならぬ。此の如き考は単に方便と見ることもできる。これらの説はすべて神を間接に外より証明せんとするので、神その者を自己の直接経験において直にこれを証明したのではない。 然らば我々の直接経験の事実上において如何に神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んでいる。即ち無限なる実在の統一力が潜んでいる、我々はこの力を有するが故に学問において宇宙の真理を探ることができ、芸術において実在の真意を現わすことができる、我々は自己の心底において宇宙を構成する実在の根本を知ることができる、即ち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は直に神その者を証明するのである。ヤコブ・ベーメのいったように翻ひるがえされたる眼 umgewandtes Auge を以て神を見るのである。
神を外界の事実の上に求めたならば、神は到底仮定の神たるを免れない。また宇宙の外に立てる宇宙の創造者とか指導者とかいう神は真に絶対無限なる神とはいわれない。上古における印度の宗教および欧州の十五、六世紀の時代に盛であった神秘学派は神を内心における直覚に求めている、これが最も深き神の知識であると考える。
神は如何なる形において存在するか、一方より見れば神はニコラウス・クザヌスなどのいったように凡すべての否定である、これといって肯定すべき者即ち捕捉すべき者は神でない、もしこれといって捕捉すべき者ならば已すでに有限であって、宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのである(De docta ignorantia, Cap. 24)。この点より見て神は全く無である。然らば神は単に無であるかというに決してそうではない。実在成立の根柢には歴々として動かすべからざる統一の作用が働いている。実在は実にこれに由って成立するのである。たとえば三角形の凡ての角の和は二直角であるというの理は何処にあるのであるか、我々は理その者を見ることも聞くこともできない、而しかもここに厳然として動かすべからざる理が存在するではないか。また一幅の名画に対するとせよ、我々はその全体において神韻縹渺しんいんひょうびょうとして霊気人を襲う者あるを見る、而もその中の一物一景についてその然る所以ゆえんの者を見出さんとしても到底これを求むることはできない。神はこれらの意味における宇宙の統一者である、実在の根本である、ただその能よく無なるが故に、有らざる所なく働かざる所がないのである。
数理を解し得ざる者には、いかに深遠なる数理も何らの知識を与えず、美を解せざる者には、いかに巧妙なる名画も何らの感動を与えぬように、平凡にして浅薄なる人間には神の存在は空想の如くに思われ、何らの意味もないように感ぜられる、従って宗教などを無用視している。真正の神を知らんと欲する者は是非自己をそれだけに修錬して、これを知り得るの眼を具えねばならぬ。かくの如き人には宇宙全体の上に神の力なる者が、名画の中における画家の精神の如くに活躍し、直接経験の事実として感ぜられるのである。これを見神の事実というのである。
上来述べたる所を以て見ると、神は実在統一の根本という如き冷静なる哲学上の存在であって、我々の暖き情意の活動と何らの関係もないように感ぜらるるかも知らぬが、その実は決してそうではない。曩さきにいったように、我々の欲望は大なる統一を求むるより起るので、この統一が達せられた時が喜悦である。いわゆる個人の自愛というも畢竟ひっきょう此の如き統一的要求にすぎないのである。然るに元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一を以て満足するものではない。更に進んで一層大なる統一を求めねばならぬ。我々の大なる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表わし他人と自己との一致統一を求むるようになる。我々の他愛とはかくの如くして起ってくる超個人的統一の要求である。故に我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。而して宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。